武田八幡宮

春の信玄公祭り 祈願祭で賑わう武田八幡宮

百体の観音像の刻まれた一石百観音石碑

武田八幡宮の麓に広がる棚田 山梨を代表する穀倉地帯である

武田八幡宮神楽より神乃舞

武田八幡宮神楽より天の鈿女の舞

素戔嗚鵜命(すさのうのみこと)大蛇退治の舞

初冬の応仁塚(わに塚)

厳寒の武田八幡宮境内

武田八幡宮について

弘仁十三年およそ千二百年前の八二二年嵯峨天皇の勅命により武田王の祠廟を遷座し同時に九州宇佐官を合祀し創建された古社になります。京都石清水八幡宮の八五九年よりも古く、鶴岡八幡宮の一〇六三年より遥かに古くなります。これは武田王の祠に由緒するためで、信義公以降は甲斐武田家の氏神として代々尊崇されました。

武田八幡宮 由緒

武田八幡宮拝殿
鎮座地
神山町北宮地
祭神
誉田別命(ほむだわけのみこと)(応神天皇)
足仲津彦命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)
息長足姫命(おきなかたらしひめのみこと)(神功皇后)
武田武大神(たけのおおがみ)
旧社領
高二十七石二斗余(朱印地)
祭日
十月十四日(直近の日曜日)
由緒

伝えによれば、武田の地に日本武尊の王子武田王が封ぜられ、その館の跡を桜の御所と名づけたといわれます。

武田王がなくなられて、御所に(ほこら)をたて武田武大神としてあがめ(まつ)られるようになり、王のなきがらは手厚く(わに)塚に葬ったと伝えられています。

清和天皇の御代になって(八五八~八七六)さらに石清水(いわしみず)八幡宮を勧請(かんじょう)して合祀しました。

甲斐守となった源頼信以来代々八幡宮を尊崇してきました。義光の曽孫竜光(そうそんりゅうこう)丸は武田(ごう)に封を受けると、武田八幡宮を氏神と仰ぎ、社前で元服の式を挙げ、武田太郎信義と名のり、武田郷一円を八幡宮に寄進して厚く当社八幡宮を崇敬していました。

武田信虎の時代になって武田家の氏神としての武田八幡宮を崇拝の気は益々厚く、勝ち戦を続けることのできるのは神の加護の(たまもの)と信虎は八幡宮の再建を志し、全面的な大工事に天文元年着工しました。その間にも連戦連勝して国内の統一をなしとげ、隣国にも力を伸ばしていったが諸事情があって、信虎は駿河の国に追われる身となり、天文十年(一五四一)六月十四日、信虎の子武田晴信が武田家をつぎました。

父信虎が十年前に始めた八幡宮の再建の大工事も進み、晴信が武田家をついでから十年後の天文十年十二月二十三日には完成しました。

それが現存する武田八幡宮なのです。昭和四年四月六日国の重要文化財に指定された本殿をはじめとして後世に残る多くの建造物や広大な境内の整備が信虎・信玄の父子の手によってなされたのです。境内神社として、為朝(ためとも)神社、若宮八幡宮があります。また、社殿及建造物には、本殿(重要文化財)、拝殿、神饌殿、神楽殿、神楽装東舎、隨神門、社務所、石鳥居及正面石垣(県指定文化財)、両部型木の大鳥居及輿石(県指定文化財)、為朝神社社殿、若宮八幡宮社殿、手水舎等があり、いずれもすばらしい文化財であります。

韮崎から八幡宮に通ずる路線も早くから県道に編入されており、近年境内の整備が行われ大駐車場も設けられ常時何台かの車が駐車するようになりました。祭日には神楽等多くの催しもあり参詣者も多く賑っています。

(『ふるさと読本「かみやま」』韮崎市立神山公民館、1993、44)