境内見取り図
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境内ご案内
本殿
本殿は、武田信義公から400年後の天文10年(1541年)武田信虎公・信玄公により再建されたものです。本殿の特徴は、三つの扉があり大きな屋根が正面に流れている三間社流造檜皮葺という建築様式です。武田氏の強大さを誇る造りです。その後の修復は、徳川家・甲府藩主の柳沢吉保が神社に関わっていることも確認されています。昭和4年本殿が国宝(のち重要文化財)に指定されました。令和元年には40年ぶりの屋根葺き替えを行いました。 |
拝殿
御神体への祭祀や拝礼を行う場所です。参拝の方法には、拝殿前で自由に行う参拝と拝殿に昇り御祈願をする参拝があります。 |
勝頼夫人願文
武田勝頼公は、天正9年(1581年)12月24日新府城に入城しました。すでに形勢が悪く、織田信長に攻め立てられました。夫人は武田家の守護神である「武田八幡宮」に祈願を決意し天正10年(1582年)2月19日「祈願文」を納めました。しかしながら願い届かず勝頼公一行は3月3日に新府城を後にし岩殿城へ向かいました。そこで小山田氏の裏切りにあい田野で悲しい最後を迎えました(3月11日)。時に夫人は19才、勝頼公は37才。(願文の資料は社務所にあります。問い合わせは社務所まで) |
神楽殿
神楽は、貴重な伝統文化遺産として、武田八幡宮神楽団によって継承されています。毎年秋の例大祭では、多数の舞が奉納され祭りを盛り上げています。 |
随神(身)門(楼門)
天保12年(1841年)再建。随神門は神域への入口として、入口の左右には武官の装束を着て剣と弓を持つ随身姿の二神の閽(かどもり)の神像を祀っています。本殿に向かって右が左大臣、左が矢大臣といいます。 |
境内周辺のご案内
ニノ鳥居(両部鳥居) 「県・指定文化財」
武田信虎公・信玄公によって再建されたものです。武田家滅亡後の天正12年(1584年)徳川家康が新府城在陣の折に社領を従来通り維持管理することを認められ、修復しています。額束の裏面には元禄14年(1701年)再興、寛政元年(1789年)再々興とあることから現存しているものは320年余の歳月が経っていると思われます。高さ7m、笠木の長さ9.8m、中央部に「武田八幡宮」と書かれた額が掲げられていますが、これは信玄公が書いたものだと伝えらえています。今では文字が風化してはっきりしていません。 |
三ノ鳥居(明神鳥居)と石垣 「県・指定文化財」
石垣の上に立つ石鳥居と正面参道側の石垣と石段、随神門前の石積みは神社の境内の入口にあたる社頭の形態としては、他に例のない珍しいものだといわれています。石垣と石鳥居の配置に特別な関係があるといわれています。この特色ある状態を保存する為に、正面の長さ6.03m、高さ1.67m程の石垣とその上に立つ鳥居が県の指定文化財として指定を受けました。 |
一石百観音石像
観音さまは、衆生(生命のあるすべての物)を救うために33の姿を現すことから33か所の観音様を巡る信仰が始まった。これは高さ1m70cmで三角形の板石に、西国33観音・坂東33観音・秩父34観音、合計100体の石像を7段に刻んで造塔され、ここ1か所で巡礼したことになる意味でつくられています。 |